自己紹介

自己紹介|アラフォーで年収700万の安定を捨てたワケ

初めまして。『ちた』です。
このブログを覗いてくださりありがとうございます!

私は、3人の子どもを育てる40歳のママ。
少し前まで東京の大手メーカーに勤めていました。

新卒から16年間、海外営業職として時に何百億円という売上に関わる仕事をしてきたのですが、40歳を前に限界を迎え、キャリアを捨てる決意をしました

今、私が目指すのは、「在宅ワーク」で”やりがい”と”高収入”を実現すること

今回の記事では、私が安定したキャリアを捨てた背景や、在宅ワークという選択肢を選んだ理由も含め、自己紹介としてまとめています。

基本情報

ブログ名| ちた
生まれ年| 1984年12月
現住居|  愛知県
家族|   夫(会社員)・長男(10歳)・長女(4歳)・次女(2歳)との5人家族
現職|   フリーランス(オンライン秘書・SNS運用代行、他)
必要な物| 一人の時間、快適な住まい、仕事のやりがいとお金!
MBTI|   INFJ-A(提唱者)

”優秀”というレッテルがついた小学〜中学時代

今から40年ほど前、私は3人兄妹の一番上に生まれました。

暮らしたのは、名古屋まで電車で30分ほどの街です。
チェーン店から個人店、飲食店も沢山ある。その一方で、車で30分圏内に自然豊かなレジャー施設も沢山あるという、とても便利で暮らしやすい、都市と田舎の中間『トカイナカ』でした

夕方暗くなるまで外で遊んでいる子だったようです。

「この子いますぐ秘書になれます」

これは、小学5年生の個人面談で、母が
私の担任の先生から言われた言葉だそうです。

活発な反面、真面目で、授業はちゃんとノートを取らなきゃ!
というタイプだったので、先生ウケは◎。成績もオール5でした。

相手が望んでいることに気がついて先回りして動くー
今思うと、こういうことが小さい頃から自然にできていました。

加えて、絵を描くことや、レゴで街並みをつくること
シルバニアファミリーで雑貨屋さんのレイアウトやディスプレイに
何時間も夢中になるなど、創造性のある遊びも大好きでした。

「途中で投げ出さず最後までやり抜きなさい」

中学に入ると、両親からこんな言葉を言われて部活動を始めます。
選んだのは母に勧めれた「テニス」。

ただ、顧問の先生がめちゃくちゃ厳しく熱心で、朝練夕練に加えて土日も練習試合や大会のスケジュールがみっちり。休みは定期テスト前の1週間と盆と正月の数日のみでした。

だからこそ、テスト前の1週間は超貴重。
空いた時間を使って、どうやったら効率的にテスト勉強できるか考え、教科ごとに復習計画を決め、分単位でスケジュールして取り組むーという、今でいうタスク管理がこの頃からち自然にできていました

そのおかげもあってか、学年ではほぼトップ10位以内の成績。
高校は、地域で一番の公立進学校に進むことになります。

長女として、真面目でしっかり者だった幼少期。
厳しい部活も学業と両立して最後までやり抜き、高校は進学校へ。
両親からは”優秀”というレッテルが貼られます。

自分を模索した高校〜大学時代

自分の本心に向き合えなかった

しかし、実際には飛び抜けて優秀でなかった私は、地域の優秀な生徒が集まってきた高校に入ると、自然と成績が低迷します。

一方、”優秀”のレッテルで私を見ている両親の期待は大きく、「良い大学に入って、良い会社に就職することが大事」は暗黙のルールになっていました。

それをプレッシャーに感じつつ、自分が好きなデザインを学びたいと考え、勇気を振り絞って『専門学校に行きたい』と申し出るも、

「大学に行っておかないと、ちゃんとした企業に就職できない」

という親の一言に、何も言い返せずあっさり玉砕。

今思い返せば、この時にもっと自分の気持ちに本気で向き合えばよかったと思います。親の助言にただ従い、好きなことに本気で取り組んだり、大きな挑戦もしないまま高校生活は終わり、結局、滑り止めだった地元の文系私立大学に入学することになりました。

自分の殻を破っての挑戦

大学で仲良くなった友人や留学生はみな、海外志向でアクティブ。

その影響で私は、「バックパックを背負い1年間かけて世界一周旅行をする!」という、それまでの自分のキャラからはあまり想像できない行動に出ました。当時私の周りではこういった”バックパッカー”が流行していたのです。

しかし本来の私は、一般的なバックパッカーにイメージされるような「オープンでバイタリティがあって、不特定多数の人たちと刺激的な毎日を楽しめる人」とはちょっと外れたところにいました。

でも、当時はまだそんな自分自身のことが分かっていなかったんです。就職を前に『何か挑戦してみなきゃ!』との焦りもありました。
結局、実際に旅に出てから約半年、11カ国を旅をしたところでようやく『自分には毎日変化の激しい旅暮らしはあっていない』と気づいたのでした。

ただ、何も得るものがない状態ではダメだと思い、残りの3ヶ月間はボストンの語学学校へ留学。そこそこの英語力を身につけることができ、この1年の挑戦は、自己理解と英語力を得られた良い経験となりました。

自己PRを間違えて、海外営業職へ

さて、帰国後すぐスタートした就活。ここで私は、大きなミスを犯します。
この「世界一周旅行」という企業側からもイメージしやすく目立つ経験と身に着けた英語力を、自己PRのメイン材料に使ってしまったのです。
結果的に、海外での売上が7割以上を占める機械メーカーに総合職として内定。就職後は東京本社にある海外営業企画部門に配属されました。

しかし、本来の自分と異なる人物像で採用されたことが、後々苦しむ原因を作ります。

自分の本心に蓋をしたまま通り過ぎた高校時代。
大学での突飛なチャレンジをアピールし、大手企業に就職したものの、
私は海外営業職向きの「オープンでバイタリティーのある人物」ではありませんでした。

間違ってたかもと気づいた30代

フルタイムワンオペ生活の始まり

とはいえ、20代の頃は、目の前の仕事をとにかく一生懸命取り組むことで、仕事もプライベートも充実していました。
データ分析や資料作成から始まり、海外のお客様を国内の自社工場や観光地に連れて行ったり、CEO会談の運営、大型の入札案件や契約交渉まで、難しいながらも上司や先輩に指導いただきながら1つ1つできることが増えていきます。

ただ、入社5年を過ぎる頃に
『30歳までには子どもが欲しい。それにはまず結婚しなくてはー』
とリアルに考えるように。

そんなタイミングで、今の夫と出会い結婚し、ちょうど30歳手前で第1子となる長男を出産しました。

しかし、ここでまた私は選択ミスをしたようです。笑

夫は、仕事に対しては責任感を持って取り組むのですが、
プライベートではとにかく自分のペースを乱されるのが嫌いー
せっかちでしょっちゅうイライラしては私にぶつけてくるー という人でした。

子どもが産まれ、保育園のお迎えや家事を頼んでみたことも何度となくありましたが、いちいち嫌な顔をされたり、それは俺のやることじゃないオーラを出され、そんな夫に気軽に頼ることができなくなり、見事!フルタイムのワンオペ育児が確立したのでした。

決定的な出来事

これまで夫からは数々の罵声を受けてきましたが、一番よく覚えているエピソードを紹介させてください。長男の1歳の誕生日に、私が右肘を骨折してしまった時のことです。

ものすごい激痛と腫れが一向に引かず、近所の接骨院に駆け込むも「これは大きな病院に行ったほうが良い」と言われます。

夫に事情を話すと、第一声がこれ。

「何やってんだよ!今日は〇〇(長男)の誕生日だぞ!
そんな時にケガとかほんと信じらんわ、バカなの!?」

・・・まぁなんとなく想像してはいましたが。

治療期間を短くするために全身麻酔での手術&入院を勧められました。しかし、まだ夜は授乳中だったので部分麻酔で日帰りにしてもらい、いつも通り一人で仕事と家事育児を続けました

夫からはもちろんその後労わるような言葉はありません。(悲しいほど共感力と協調性が低い、俺様タイプです。)
とにかくその時は子どものために必死でした。でも後になってよく思いました。

私、間違えたのかな』と。

封じられた異動願い

この事件とほぼ同時期に仕事復帰した私は、朝7時すぎに長男を保育園を預けて、夜18時や19時にお迎えに行く毎日を何年も過ごしました。週末は溜まった家事と翌週のための作り置き。子どもを公園に連れて行く時間を捻出したら、それであっという間に終わります。(夫は家でゆっくりしたいので、もちろんノータッチ。)

元々女性の少ない会社でしたが、中でも営業職の女性は少なく、私より上の世代は結婚していないか、していても子どものいない人ばかり。
ロールモデルと呼べるような人は身近には見当たりませんでした。

営業職にありがちですが、クライアントの都合で急に大きなプロジェクトが始まったり、唐突に緊急案件が降ってくるなんてこともしょっちゅうでした。当然、納期もこちら都合で決められません。

仕事内容も、自分の性格に合っていないなと感じることが増えていたので、子育てとの両立も考えて、社内公募制度を使って別部署への移動願いを提出。
そうやって別の道の模索を何度かチャレンジしましたが、全て封殺されました

どこも人手が足りないので、よっぽどでない限り異動はできなかった様です。
総合職で就職した以上仕方のないことでしたが、自分に向いていない職場でも、社内で簡単に路線変更することはできませんでした。

30代も中盤に差し掛かり、それなりに成果を出して役職が上がるも、

・自分に向いていないことでやりがいを感じられない仕事
・クライアントに左右される営業という職種
・長時間働かないと回らない環境

そんな状況下、夫にも遠方にある実家にも頼れない私は、徐々に仕事に行き詰まりを感じるようになっていました。

そして、同時期、どうしても子どもは3人欲しいと思っていた私には妊娠出産のタイムリミットが迫っていたのです

20代は自由に残業もでき、向いていない仕事も”根性”と”時間”でカバーできていました。
しかし、出産後のフルタイムワンオペ生活で、仕事に行き詰まりを感じるように…。

地方移住を決意した30代後半

待望の第2子出産と転期となった小さな事件

長男を30歳手前で出産した後、5年近くが過ぎていました。
なかなか2人目を授かれなかったため、不妊治療をスタートし、幸いにも1度目の体外受精で結果が出て第2子を妊娠。2020年、コロナ禍初期に無事長女を出産します

ただ、この2人目の育休が明ける前に、3人目も同じく体外受精で授かることができ、一度職場復帰して半年ほどで、また3人目の産休に入る予定になっていました。

2人目の育休から復帰したのは2022年4月。コロナがまだ落ち着いていなかったことや、在宅勤務の流れが社内外で一気に進んだこともあり、復帰後はほぼ在宅ワークでした。

ただ、産休に入る前に、復職する際には時短勤務にしたいと何度も伝えていたのに、復帰早々に大手クライアントの主担当や後輩指導まで任されました。時短で回らないことは明らかで、案の定、数十億・数百億という大きな入札案件がポンポン舞い込んできます

こんな状況の中、ある大型契約交渉プロジェクトに取り組んでいたときに、小さな事件が起きました。

私は、要求された短納期に間に合わせるため、すでにギリギリの状態。それなのに、長女が立て続けに感染症に罹りひと月の間に2週間も登園禁止になるという非常事態が発生!それでも、自分しか頼れなかった私。とにかく終わらせるしかないので、夜中子どもが寝ている隙に仕事をしました。

でも、これがいけなかった。

育休をとっている間に会社の勤怠管理制度が変わっていて、深夜業務は事前申告制になっていました。私がこれを知らずに働いたせいで、なんと上司が懲罰対象になってしまったのです。

そのクライアントの案件は、何とか間に合わせて終えたのですが、
この事件で、私の中で長年張り詰めていたものがプツっと切れた様に感じました。

『もうこの会社で働くのは無理だ。』
2人目の出産後、短期間の復職の際に起きた事件によってこう感じるようになり、そのまま3人目の産休・育休に突入しました。

忍び寄る中学受験熱

話は変わりますが、当時私たち家族が住んでいたのは東京の大田区で、
長男の通う小学校は毎年半数以上の子が中学受験をするような学区にありました。

当然周りのママ友も意識の高い人ばかり。
アンテナを張り巡らせて情報収集し、幼少期から幼児教室に通わせたり、
子どもが小学校に上がるとすぐ塾通いを開始する家庭も多かったです。

中には「コロナ禍での公立小学校の対応が心許なかったから」という理由で
お受験を経て私立小学校に進学した仲良しの同級生もいました。

一方私は、こんな理由から長男の中学受験にはずっと懐疑的でした。

・自分自身が地方の公立文化の中でそれなりに幸せに育ったこと
・長男が精神的にまだ幼く、飛び抜けて勉強ができるタイプではないこと
・都内の私立中学受験では相当な詰込み学習をしないと結果を出せないこと
父親のモラハラが、過酷な受験を通じて悪化する可能性が高いこと

このまま周りに影響されて私立中学受験沼にハマってはいけない。
かといって、地域の公立中学校は悲しいほどレベルが低い。

ずっと考えてきましたが、明確な答えが出せないままでした。

でも3人目の産休に入る前、長男が小学2年生の頃に先述の仕事の事件がありました。
子どもの学費もあるしと思って頑張ってきたけど、もうこれ以上は限界ー
『それだったらいっその事、暮らしやすかった地元に帰りたい』
そう思うようになります。

本格的な受験勉強が始まるのは4年生。
『子どもが友人関係を新たに築くためにも、その頃までには引っ越したい。』

こんなことを考えながら、第3子となる次女を出産し、仕事を辞めて移住する決意を固めました

2人目の出産後、短期間の復職の際に起きた事件と、都内での私立中学受験を回避したい気持ちが、地方移住の道を示してくれました。

理想は簡単には手に入らない

地方で働くという現実

24年3月。私は16年勤めた会社を退職し、地方移住を実行しました。

引っ越し後しばらくは、子どもたちも含めて新生活を整えることを優先し、失業手当をもらいながら過ごしていました。しかし、実際に仕事を探し始めて愕然とします。

小さい子どものワンオペ育児を踏まえて「拘束時間が少なく融通の利きやすい仕事」となると時給1000円ちょっと、最低賃金レベルのパートしかないのです
一方で、それなりの月収を目指そうとすると、名古屋まで通勤する必要があり、拘束時間も長く、ワンオペで夕食開始は7時までを要求される我が家には難しい。

ハローワークで介護職について相談したり、近くの空港のフロントスタッフ、民泊経営など色々模索しましたがいずれも条件が合わなかったり、しっくりこなかったりして、
なかなか一歩が踏み出せずにひと月ほど過ごしました。

在宅で働くという可能性

そんな中、SNSで偶然こんな趣旨の広告を目にしました。

「オンライン秘書のお仕事で在宅ワークを実現!」

実は、第3子の育休中、実家の事業の手伝いを頼まれ細々とオンライン秘書的な仕事をしていた私は、この広告を見た瞬間『これだ!』と閃きました

改めて振り返ってみると、自分は、何十億とかいうスケールが大きい仕事ではなくて、もっと身近な人に喜んでもらえる仕事や、黙々と何かをつくることにやりがいを感じていたと気づきます

在宅ワークでできる仕事の中には、オンライン秘書に限らず、ずっと興味のあったデザインに関わる仕事もある。さらに、身近にInstagramの運用代行を探している人もいたので、今の自分には何のスキルもないけれど、これから学んで仕事にしていけば良いと気づきました。

自分の得意を活かして自分らしく働ける仕事ー
そして、子ども3人をワンオペで育てる渦中の私には「在宅ワーク」という働き方が、最も理にかなっていると感じられました。

第二の人生のスタート!

そのSNS広告は、以前からなんとなく目にしていた「リモラボ」というオンラインスクールのもの。広告を見てすぐに翌日の無料説明会に申し込み、直感に従って即 入会しました

実は、このブログを書いているのはリモラボに入会して3ヶ月目の私です。

入会後、自分の目標を明確にするところからスタートし、これまで以下のような学びに触れ、お仕事を獲得してきました。

  • セルフコーチングやクライアントワーク術
  • InstagramやXの運用ノウハウ
  • 最新のAIスキルやNotionなどオンライン秘書業務に必須の知識
  • 需要の高いWebマーケティングスキル

今は、まだまだ数万円程度の収入ですが、もっとスキルを高めて、会社員時代の収入を超える月収50万円を達成することが当面の目標です。

そして、月収100万円を達成し、夫の収入を超えてモラハラ夫を見返したい!この先何があっても怖くない状態を作りたい!
というのが密かな野望です。

※具体的な目標と達成までのロードマップはこちら。

人生の前半戦、最初は順調だったのに、いつの間にか『なんか違う』という違和感でいっぱいになっていました。

だからこそ、40歳からの人生後半戦では、もっと自分のやりたいことに向き合って、”やりがい”と”高収入”を目指して挑戦していきたいと思っています。

人生もPDCAです。ここまで40年間、たくさんの経験をしてこの先もっとステップアップできる準備をしてきたと考えています!

 

大変長くなりましたが、最後までお付き合いいただき
ありがとうございました!

ちた

 

 

ABOUT ME
chita
地方在住で在宅ワークをしているアラフォーママ ワンオペで10歳、4歳、2歳の3人を子育て中! このブログでは、元バリキャリの3児ママが、 地方移住して月収100万円に挑戦するリアルを発信中です!